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News / ニュース

2015/11/25 お知らせ

登山界“おちこち”の人 大河原汎二さん、由紀子さんご夫妻に聞きました。

    Newsletter 2015年12月号
平成27年12月10日 第377号
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インタビュー連載 第9回

 

山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。

カトマンズ在住40年余。多くの日本の登山隊やトレッカーが頼りにしてきた、大河原汎二さん、由紀子さんご夫妻に大地震に見舞われたネパールの現状とこれからを聞きました。
 

── 4月25日の大地震から7ヶ月です。カトマンズの町の様子はどうですか。主要なトレッキングコースはすでに多くの外国人トレッカーが歩いていると聞いています。
 

 あの日、私たちは東京にいたのです。そこで、地震直後の午後1時すぎに黒川さんから電話をもらい、地震の発生を知りました。すぐにカトマンズの家族と会社(ヒマラヤンジャーニーズ社)に連絡をとりました。幸い家族も会社も被害がなかったのです。でもそれからが大変でした。カトマンズにもどり、被災者の人たちの支援で、アルパインツアーが使っているテントや備蓄食糧を放出するためにネパール人スタッフを被災地へ送り出しました。
 地震から半年たってもまだまだ復旧していないところもあります。でもタメルの商店街も店は開いていますし、市内の大型ホテルも早々と営業再開しました、トレッキングコースはサーダーたちが手分けして実地踏査しています。エベレスト街道やアンプルナ・ダウラギリなど主要コースは問題ありません。マナスル西面のコースはアルパインツアーと協力して開拓してきたまだ新しいトレッキングコースですが、ここも大丈夫です。

── 日本は東日本大震災から4年と8ヶ月です。先日、「みちのく潮風トレイル」の整備事業の協力で福島県相馬市と新地町をたずね、地元の人たちと鹿狼山を登ってきました。新地町は津波で大きな被害に遭い、町役場周辺も重機とトラックが入り、まさに復興半ばです。とにかく観光復興で相馬と新地を訪れてほしい、という声が多かったのです。山岳国ネパールは観光立国ですから、その国情からしても多くの外国人ツーリストの来訪に期待がかかります。

 ネパールの外貨収入は外国人ツーリストの消費と、国外で就業するネパールの人たちの働きにある、と言ってもいいくらいです。私たちの会社も外国人トレッカーがやってこなければスタッフの仕事がなくなります。カトマンズには何百社という旅行会社があります。多くは家族経営で小規模ですが、ネパールの主な産業が観光であることを物語っているのです。さまざまな産業で潤っている、日本や西欧諸国とは比較にならないほど、ネパールは限られた産業の小さな国なのです。それに政府の支援がどこまで国民に行き渡るのかということも心配です。
 ネパールは、マオイスト(共産党毛沢東派)の内乱を乗り越え、王政から連邦共和制となり、新しい憲法制定までこぎ着けました。震災復興には憲法の存在も重要だったのではないでしょうか。でも、その憲法制定では、インド系住民のマデシ族の不満でインド国境が閉じられて、燃料不足がつづきました。いまは中国からの緊急輸入でしのいでいます。ネパールは観光立国を標榜していますから、外国人ツーリストが不便を感じないようにしています。ルクラへの山岳飛行便や観光地ポカラへの航空便もちゃんと飛んでいます。
 ネパールの人たちはとにかく我慢づよいのです。マオイスト内乱で国内が揉め、時折インドとの関係で物資不足になり、震災復興も端緒についたばかりでも、国や行政に頼らずに自分たちで何とかしよう、という気概があるように思います。地震の後、道路に放置された瓦礫を町の青年たちが自分たちで片付け始めたのが印象的でした。それまでは、道路にゴミが溢れていてもだれも片付けようとしなかったのに、この地震がネパールの若者の心に火を付けたのかもしれません。

── 来年はいよいよマナスル初登頂60周年です。1956年5月9日、日本山岳会隊が先の敗戦からわずか11年で成し遂げた偉業です。11年前の2006年春には、初登頂50周年を記念して多くのトレッキング参加者にネパールに行っていただくことができました。来年は、震災復興支援としても意義深いわけですからたくさんの日本人トレッカーに出かけてもらえるよう、いまから準備しています。

 日本とネパールの国交樹立も来年9月に60周年を迎えます。日本とネパールの関係はネパールからチベットに渡った僧侶、河口慧海の時代を含め、今日まで、日本の皇室と旧王室との交流もあり、実に親密な関係を築いてきたといえると思います。とくにヒマラヤ登山では切っても切れない関係にあります。数え切れない日本の登山隊がネパールヒマラヤで活躍してきたのです。私たちの会社も登山隊やトレッカーの方々にほんとうにお世話になってきました。会社は次の世代の者たちが運営していますが、来年5月のマナスル初登頂60周年記念式典には私たちも必ず出席します。
 思い起こせば、25年前の山と溪谷社創立60周年、15年前の70周年のレセプションや記念トレッキング、2002年1月のカトマンズ武道館開館式典とその後の武道交流、2004年2月のポカラの国際山岳博物館オープン記念につづき、2006年5月のマナスル50周年記念式典と記念トレッキングなど、私たちの会社はアルパインツアーと協力して多くの周年事業に携わってきました。これも長い間ネパールに住み着いてきたからできたことだと思います。 アルパインツアー生みの親、芳野満彦さんが何ヶ月も私たちの家に長逗留して、絵を描いていたのはもう30年以上前です。先日芳野さんが残した、畳ほどの大きさのヒマラヤの絵が出てきました。タンカ(仏画)の裏に描いてある大作です。いつか日本に里帰りさせたいと思っています。
 来年5月のマナスル60周年ではたくさんの日本の人たちにネパールを訪問してもらいたいのです。カトマンズでお会いしましょう。

(インタビューおわり)

 

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 我が社の最初のネパール・ヒマラヤ・トレッキングツアーは、1971年春のエベレスト街道でした。このときのトレッキング隊の団長は茅ヶ岳で急逝された深田久弥さんに代わり、当時日本山岳会副会長だった吉沢一郎さんにお願いし、ツアーリーダーは、いまも本社で働いている、梅津晃一郎でした。そしてこのグループは、シャンボチェの丘に宮原巍さんが建設した、「ホテル・エベレストビュー」の最初のツアー客になったのです。
 大河原さん夫妻は、当時宮原さんの会社(トレッキング等旅行手配会社)におられ、後にヒマラヤンジャーニーズ社を立ち上げましたが、我が社とはすでに44年間の長きにわたって仕事仲間以上の関係を築いてきた、ということになります。大河原さんの会社は世代交代も順調で、夫妻が現場第一線で指揮をとることは少なくなりましたが、カトマンズのトレッキング業界や日本人会での欠かせない立場は変わりません。
 ネパールに降りかかってきた多くの難題は、私たちの仕事への難題そのものでした。25年前の大規模な民主化要求デモ、マオイストの内乱、王室の廃止、制憲議会のもたつき、そしてこの大地震などです。それでも多くの外国人ツーリストは絶えることなくネパールを訪問し、この国の溢れんばかりの魅力に触れてきました。この国では外国人ツーリストが標的にされた深刻な事件は起きていないといえます。ネパールの人たちは直面する難題に実に我慢強く耐え、観光立国の誇りを持ち続けてきたからこそだと思います。
 難題に直面したとき、悲観的な考えも過大すぎる期待ももたず、国や行政を頼らないことが我慢強くなる秘訣ではないか、と内心で思うのです。でも、ほんとうにそれでいいのでしょうか。

 

(平成27年10月13日 聞き手:黒川 惠)