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2016/04/27 お知らせ

登山界“おちこち”の人、山岳映画、伊藤弥八さんに聞きました。

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平成28年5月10日 第382号
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インタビュー連載 第14回


山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。


8ミリカメラで撮り始めた山岳映画は、アマチュア映像作家の域を飛び出し、主宰する「山岳映画サロン」の作品上映会は通算169回。代表の伊藤弥八さんがレンズを通した、登山の楽しみと、日本の山岳映画について語ります。


── 長い登山人生のなかには、1956年のマナスル初登頂後の日本の登山人気の沸騰から、中高年登山者の急増と遭難の多発もありました。近年では若年層登山者の増加が目立っています。何がきっかけとなって山の映画を撮るようになったのでしょう。

 
 昭和20年代後半、まだまだ戦後の不自由な生活の中、人々は山へ行きたいが、先立つ金もなく、余暇も十分ではありませんでした。せめて山岳雑誌やその写真で山の想いを満たしていたのです。そんな時、山岳映画会があることを知りました。スクリーンに映る、懸命な登山者の鼓動に感動し、風にそよぐ高山植物、青空に湧く白雲、水の飛沫の煌きに自然の美を知り、自分も山の映像を撮影したいと強く感じたのです。それで、昭和36年5月から、8ミリ映画の撮影を始めました。昭和43年春から、「山岳映画サロン」の発会をめざし、44年1月にその創立に関わることになりました。
 山岳映画の魅力はスチール写真では味わえない動きと画面構成、編集による時間の流れの表現です。アップ画面、広角画面、圧縮感、遠近感誇張、微速度、高速度撮影、これらの要素を編集によって表現の立体感を創り出します。画面に合わせた音楽や効果音、ナレーションで映画としての総合的な芸術への進展を心がけています。時間と空間を越えた作者の感性によって、より一層効果的な表現が構成できるのです。
 台本づくりや朗読、録音は大変難しいものですが、完成した時の充実感は、物を作り出すことの出来る人間としての満足感でもあり、自分自身が癒され、映画を観る人には登山のよろこびと山への誘いのメッセージとなります。


── 山岳映画は、観てもらうことで生きてきます。レンズを通じて大自然と登山者を動画として切り取ります。いままでも多くの映画会を開催し、文部大臣賞も受賞しています。海外へも足繁く通いました。


 文部大臣賞は、1974年12月に山岳巡礼倶楽部で行った、ゴラパニへのトレッキングで撮影した、「ゼイ・ネパール(ネパール万歳)」で受賞しました。その後テレビ出演2回やCS放送放映作品30数本など手がけました。個人映画会は、立山博物館で3回、富山で2回、静岡で4回、栃木で1回、神奈川で1回おこないましたが、すべて自家用車に機材を積み込んで出かけるのです。
 いったいどれだけの作品を作ったのか数えてみたら、国内登山の8ミリ映画作品93本、ビデオ作品58本、海外トレッキングの8ミリ映画作品6本、ビデオ作品53本で、合計本数は210本です。
海外撮影行は、ネパール20回、パキスタン3回、チベット2回、モンゴル2回、ブータン1回、インド1回、スイス・フランス・イタリア1回で、計30回となっています。
 アルパインツアーではこれまで27回行っています。この4月17日からは、マナスル西面トレッキングに出かけ、新しい作品をつくります。アルパインツアー28回目の海外です。
 ネパールは、今度で21回目です。山の花は撮影対象でもあり、花好きなので7月に行ったゴーキョ・ピークのトレッキングが印象的でした。幸い天候に恵まれ、ルクラから上も青空が広がっていたほどです。


── 戦前からの山岳映画は、愛好者の努力で変遷を遂げ、いまも山岳映画会は相変わらず人気があります。主宰する、「山岳映画サロン」がめざしているところを聞かせてください。

 山岳映画そのものは戦前から人気があったのですが、それらの多くは、金持ちのアマチュアが「9ミリ半(9.5mm)フィルム」などで仲間の山行記録を撮影し、動くガイドとして人々に見せたのが始まりといわれています。昭和30年代に登山ブームが訪れ、アマチュアの16ミリ作品や映画会社が制作した作品が上映され、山岳映画会はどこでも満員の盛況でした。昭和40年代に入り、アマチュア作家が相次いで他界しました。山岳映画強烈推進者の本多月光氏(東京野歩路会)が他界されてから、山岳映画会はほとんど開催されなくなってしまいました。それならば自分たちで、「山岳映画の火を消すな」を合言葉にして、仲間の登山記録から映画作品の制作へ、という想いで、山岳映画会を復活することにしたのです。
 長い間代表をつとめている、「山岳映画サロン」では、『山仲間が美しき自然を捉えて贈る』と、『山と人の織りなすロマンを求めて描く』を二つの大きなテーマとしています。自分や仲間たちの山行記録撮影から始まり、映画作品に高めています。『仲間たちの楽しみの記録は自分たちで創り残す。』、『山を愛好するビキナーには動くガイドブックとして、年齢を重ねて山に登れなくなった人たちには癒しと憩いと慰めに。』、がその根底にあります。山への回顧が出来る作品を創り出し、その地域や山岳の紹介ができる作品を通して、自然を愛好する大勢の人々に登山の楽しみと、安全登山への啓発ができる映画会を開催しているのです。


──「山岳映画サロンの夕べ」として、長い間、池袋の豊島公会堂で映画会を開催されてきました。ユニセフ・チャリティー映画会とネパール大地震救援募金チャリティー映画会は意義深い内容です。

 ユニセフ・チャリティー映画会は30回つづいています。ユニセフへの寄付金額は1千万円を超えることができました。支援していただいた、山岳映画ファンの皆さんのおかげです。昨年のネパール大地震救援募金のチャリティー映画会には、駐日ネパール大使もステージでスピーチしていただき、多くの募金が寄せられました。大好きなネパールのために少しでも役立つことができて良かったと思っています。


── 近年はテレビなどでも山の映像が多くなり、登山番組も人気です。山の仲間と登山し、カメラを回して作品に仕上げる、山岳映画とはどこが違うのでしょう。

 テレビ番組で、日本百名山や山の温泉めぐりなど、山に関係するシリーズ番組は毎日のように放映されています。山岳ガイドが登山中に解説しながらの山の紹介番組は、山岳映画というものではなく、動画の登山ガイドブックです。撮影スタッフも少人数で短い日数での撮影だと観ていても、映像作品の深みが感じられず、山でのドラマ性が希薄ではないかと感じます。でもテレビ番組はそれでいいのではないでしょうか。
 山岳映画には山でのドラマがないといけません。山そのものと、被写体となる山の仲間がいるのが山岳映画だといえると思います。ドラマは作りごとではなく、山の中で自然に生まれてくるものです。
 昭和30年代、40年代は、お金も暇もなく山へ行けなかったし、山へ行くことに飢えていた時代です。とにかく仕事をして、稼がなければならないわけです。初任給13,800円といった流行歌もあったくらいです。当時は汽車に乗って山へ行くことは贅沢なことだったのですから、給料も高くなり、どこにでも山の情報があって、すぐに手に入る現在は、ほんとうにいい時代になったと思います。交通機関も発達して便利になり、容易に山へ行けるわけですから、いま、私たちは恵まれている時代に生きているのです。
 

(インタビューおわり)


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 東京野歩路会の役員さん、新ハイキング社の先代社長、元中日映画の羽田栄治さんなどから、必ず会って話しを聞くべきだ、と言われ、伊藤弥八さんを紹介していただいたのは、かれこれ35年前のこと。以来、豊島公会堂での「山岳映画サロンの夕べ(上映会)」は欠かさず協賛させていただき、多くの海外トレッキングに出かけていただきました。海外版映像もそのつど作成されるのでいまや30枚 近いDVDコレクションとなっています。
 三脚構えて息を詰めながらシャッターを押すスチール写真とはまた違う魅力をもつ、山岳映画をアマチュア作家として、筋書きから撮影、音声、編集、上映へと作業を進め、作品にまで高めるわけですから相当のエネルギーがなければできるわけがありません。それも街頭撮影でなく、機材を背負って山の奥深くへ登山するのです。これからもまだまだ伊藤さんの活躍が期待される、日本のアマチュア山岳映画界、といえるのではないでしょうか。


 

(平成28年3月25日 聞き手:黒川 惠)