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2016/08/03 お知らせ

登山界“おちこち”の人、山のイベントや登山雑誌で活躍している、山岳ライター・小林千穂さんに聞きました。

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平成28年8月10日 第385号
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インタビュー連載 第17回

山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。

山のイベントや登山雑誌で活躍している、山岳ライター・小林千穂さんに山で仕事をするようになったきっかけをお聞きし、8月11日の「山の日」について、その思いを語ってもらいました。

── 女性山岳ライターとして山で仕事をしています。山登りを始めたきっかけは、子どものころの家族登山とか。


 父が山好きで、子どものころから家族で山登りをしていました。はじめて本格的な山に登ったのは、小学3年生の時の富士山。吉田口からでした。人が多くて登りづらかったし、高山病にはなるし、ひたすらつらかったことを覚えています。八合目の上部からジグザグの登山道、ひとつ折れ曲がるたびに足が動かなくなって、座り込んでしまいました。でも、父が最後には、動けなくなった私と弟を、金剛杖(富士山の山小屋などで売られている木の杖)に同時にぶら下がらせて、天秤に担ぎ、家族4人を山頂に立たせてくれたんです。
 子どもとはいえ、私と弟を同時に担いで登るのは、たいへんだったと思います。でも、その時に「物事をそう簡単には諦めてはいけない」という、いつもの教えを、父が身をもって示してくれたようで、強く印象に残っています。
 翌年の夏、もう一度富士山に登りました。その時は、私も弟も最後まで自分の足で歩いて山頂まで行くことができました。次の年には北アルプスの蝶ヶ岳へ。きっと父は富士山を自力で登れるようになったら、アルプスへ連れて行こうと思っていたのだと思います。
 小学校5年生、満を持して登った蝶ヶ岳でしたが、上高地からの登りはあまり天気がよくありませんでした。正直、あのころは、ただ連れて行かれているだけで、山登りはそんなに楽しいとは思っていなかったです。
 この時は上高地側から登って、蝶ヶ岳ヒュッテに泊まりました。初日はガスで視界は全くなかったのに、翌朝、外へ出てみるとみごとな晴天でした。目に入ったのは、前穂、奥穂、涸沢岳、北穂と並んだ穂高の美しい山並み。そこで父が教えてくれたんです。「お前の名前はあの山からとったんだよ」って。自分の名前が山から付けられたなんて、それまで考えもしませんでした。でも子供心にも父の思いがわかったのでしょう。それからです。自分の名前が好きになったのも、山のことが好きになったのも。


── 山岳ライター、という職業は知られざる面があります。山岳関係の記事だけで収入を得ているプロは数少ないはずですが、どうして、この稀少職業に就かれたのでしょう。

 蝶ヶ岳の翌年、重太郎新道から奥穂高岳へ登りました。その後も夏休みや秋の連休を利用して家族登山は続けられ、槍ヶ岳、白馬岳、北岳、甲斐駒ヶ岳などに登りました。
 山好きの子どもがそのまま成長して大人になり、ある日、山岳雑誌の山小屋スタッフ求人の記事を見ながら、「山小屋で、住み込みで働けば、ずっと山にいられる」のではないかと、ふと思いつきました。そして、一夏、槍ヶ岳山荘でアルバイトし、その時の経験から、涸沢ヒュッテの従業員を務めます。
 涸沢ヒュッテでは3シーズン働きました。今までは「お客さん」として山に登っていたのが、登山者を迎える側になって、今までとは違う立場から登山者を見るようになって気づいたこともありましたし、山小屋業界のこと、レスキューのことなど、多くのことを学びました。
 そのころ、山岳写真家の内田修さんと出会い、撮影のアシスタントを始めました。ちょうど北アルプスの取材をしているときでアシスタントとして、山域のほとんどのコースを歩きました。その後、内田さんの紹介で山のガイドブックを作成している編集プロダクションに入り、編集・ライターの仕事をするようになります。
 たぶん、はじめから「山岳ライター」という職業を目指していたら、なれなかったと思います。私は、いくつかの山に関わる仕事をして、その先々でたくさんの人に出会い、その人たちに導かれるようにして、今の仕事ができています。
 今は、里山から雪山、海外遠征と、年間でだいたい120日ぐらい山へ行っていて、その経験を通して、山の魅力を伝えることが、私の仕事です。あらためて考えてみると、もともと山登りがすごく好きで、結果としてそれを仕事にできていることはすごく恵まれていると思います。

── 8月11日が「山の日」となりました。小林さんの誕生日も8月11日。生まれながらにして山の申し子ではないでしょうか。

 「海の日」ができて以来、どうして「海の日」があって、「山の日」はないのだろうって、山好きの一人として思っていました。だから数年前、「山の日」を作ろうという動きが具体化してから、ずっと動向を見守ってきました。最初は、6月第一週月曜が有力な候補でした。登山のハイシーズンは夏ですから、山のイメージとしては弱いですが、ほぼ、その日で決まるのだろうなと思っていました。それが、突然、「山の日」制定委員会の方から、8月11日に決まりそうだと聞き、本当に信じられなかったです。
 ただの偶然ではあるのですが、「山の日」がこの日に決まったときは、山との不思議な縁を感じて、今以上に山の魅力を伝えていく活動をしようと、ひとり思いを熱くしたことを覚えています。
 山の日の意義は「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」とあります。山の日ができたことによって、今まで山に登る機会がなかった人たちも、山の自然に関心を持ってもらい、登山を楽しんでくれればいいなと思っていて、私は山岳ライターとして、少しでも登山の裾野を広げられるような情報発信をしていきたいと考えています。
 もうひとつ、山の日をきっかけに、自分自身でやっていきたいことがあります。日ごろ登山をしている私は、「山の日」の意義にある「山に親しむ機会を得て」というのは、すでに登山を通して得ていますよね。そこで、一歩進んで、「山の恩恵に感謝する」ということを具体化する日にできたらいいなと思います。
 いつも山で楽しませてもらい、仕事をさせてもらい、登山を通していろいろな人に出会って……。いわば、私の周りにあるものはすべて、山からもらったものです。気持ちのなかではいつも山の自然に感謝しているのですが、それを行動で表わすのが難しい。
 「山の日」は、私にとっては「山に休んでもらう日」にしたいと思っています。今年はできませんでしたが、来年以降、登山道のゴミを拾う、登山道整備を手伝うなど、小さなことでもいいので、山のためになる活動をして行きたいです。

── 稀少職業、山岳ライターとしてこれから歩まれる道は。

 先にも言いましたが、私の仕事は山の魅力を伝えることです。でも、いつも気をつけていることは、ただ「山は楽しい」と、いい面だけを一方的に言わないようにしていること。自然が相手である以上、登山にはリスクもあるので、そこを合わせて伝えるように意識しています。山の魅力とリスクは相反するものなので、同時に伝えることは難しく、私のなかでも、常に課題になっています。
 また、今、私たちが楽しませてもらっている山の自然を、少しでもいい状態で未来へ残したいと思っています。
 去年、私は環境省が行っているライチョウの保護活動について取材し、『山と溪谷』に記事を書いたり、その後の経過を自分のブログで伝えたりしました。ライチョウに限らず、自然保護のことを書くと、いつも私のブログのコメント欄で議論となるほど、みなさんの関心が高いことがわかります。今年は、考えるところがあって、表だった行動はしていないのですが、いつもブログを見てくれている人たちが、今年の活動に関して、コメント欄などでそれぞれが得た情報を、自発的に報告してくれています。
 私は、自然を守るなんて、大それたことはできません。でも、ライターの立場から発信をすることで、多くの人に今、起こっていることを伝えることはできます。私の役割は、山に関する情報を伝えて、みんなで一緒に考えるきっかけをつくることだと思っています。これからも私は、みなさんの足や目となったつもりで、山に関する多くのことを伝えていきたいです。

 

(インタビューおわり)
 

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「山でメシを食うなんて、できるのか。」と言われながら、創業以来、登山・トレッキング専門旅行会社として私たちは会社というチームで、山好きなお客さまと接してきたわけです。小林千穂さんは、個人の山岳ライターとして、まさに山でメシを食っているプロ。これだけでも敬意を表したいところに加え、タフでチャーミングな女子登山家、とでもいうのでしょうか、往年の歴戦の女性クライマーたちとは異なる、ちょっと気になる存在感を漂わしながらインタビューに応じてくれました。「稀少職業」と位置づけてしまった、山岳ライター業の重要な役目は、その情報発信力を生かした、安心・安全・自立登山への啓発にあるのではないかと強く感じた次第です。


(平成28年7月19日 聞き手:黒川 惠)