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2016/09/01 お知らせ

登山界“おちこち”の人、辺境、自然、そこに生きる人々をテーマとした著述家の根深誠さんに聞きました。

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平成28年9月10日 第386号
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インタビュー連載 第18回

山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。

1973年以来、数多くヒマラヤに通い、国内では白神山地の自然保護に尽力したことでも知られる、弘前市在住の根深誠さん。辺境、自然、そこに生きる人々をテーマとした多くの著書に込めた思いを語っていただきます。

── 明治大学山岳部を出てから、著述家として実に50冊余り出版されています。その中の代表作ともいえる「遙かなるチベット」で河口慧海チベット潜入の足取りを追っています。


 私が明大山岳部に入部したのは1960年代ですが、ともかくヒマラヤに行きたくて入部しました。シゴキの厳しかった時代で、13人の新入部員のうち私一人しか残りませんでした。留年を繰り返し、大学紛争のどさくさに紛れ込んでどうにか卒業したその年の秋、アルバイトで稼いだ資金をもとにしてネパールに行きました。これには植村さんの影響があったように思います。「根深、お前、海外の山へ行きたくないのか」「行きたいです」「じゃ、行けよ」、極めて単純な会話がなされていました。植村さんは私が三年生部員のとき帰国し、翌年、日本山岳会のエベレスト登山に出かけましたが、私たち学生がその準備作業の手伝いをしていたときの会話です。
 私は帰国しようとも考えずに、根無し草のように独りでふらふら出て行きました。ところが肝炎で寝込んでしまいました。顔や眼や手のひらも足の裏まで黄色くなって息も絶え絶え、生きているのが苦しかった。翌年、歩けるようになってから帰国しました。まことに無様なヒマラヤ初見参でしたが、このときジョムソンまでトレッキングしました。ポカラまでバスで行き、ポカラから歩きました。カトマンズでお世話になったタカリー族の紹介状を持って出かけたわけです。
 タカリー族はヒマラヤ随一の商業民族です。非常に親日的で、そこにはヒマラヤを探訪した最初の日本人河口慧海を遇したという経緯があるわけですが、彼らはそれを誇りに思っています。
 当時、ジョムソンから先、旧ムスタン藩王国ですが、そこに広がる荒涼とした乾燥地帯を眼前に、その風景に分け入って行った河口慧海と、その旅というものに戦慄感を禁じえませんでした。慧海が仏教の原典を求めてチベットに、三年がかりで到達し潜入したのは1900年(明治33年)のことでした。都のラサを目指したその旅のコースを私もたどってみたいとの衝動に駆られたのです。1973年のことです。
 その後、私はヒマラヤ登山に明け暮れていましたが、92年、ムスタン藩王国が外国人に開放されたとき山と溪谷社から特派され、慧海が逗留していた家を突き止めたり、そこの家族の末裔や関係者と面談したりすることができました。当時、外国人の入域が禁じられていた、ムスタンに隣接するトルボ地方にもネパール政府の特段の配慮で入域することができました。
 慧海のチベットへの越境経路、すなわち何処の峠を越えたのかという経路の解明は「ヒマラヤに残された最後のロマン」であり、その謎解きは長年、私を魅了してきました。それを三年がかりで調査し上梓したのが『遙かなるチベット』(山と溪谷社・中公文庫)です。
 しかし、謎はまだ残っており、慧海の姪にあたる宮田惠美さんの協力で日記が公表されてからそのコピーを携えて2004年、05年、06年と現地に出かけて調査し、越境経路の全容を完全ではないにしてもほぼ解明することができました。
 今回、東京映像社の理解と協力で、総仕上げともいうべき最終調査に出かけます。

── 河口慧海チベット潜入路の最終報告が待たれるところです。さて、著書には、「白神山地」と、「ヒマラヤ」、「釣行」にかかわるものが多いようです。最近の著書には、「ヒマラヤのドン・キホーテ」があります。

 『ヒマラヤのドン・キホーテ』(中央公論新社・中公文庫)は、宮原巍さんというユニーク極まる人物の半生記です。二十代で登山家としてヒマラヤ登山を志し、三十代で起業家としてネパールの観光振興に挺身し、七十代で政治家となり政党を立ち上げ奮戦する。現在なお、三つ目のホテルを、ポカラ近郊のサランコットの丘に建設中です。
 宮原さんとはじめて会 ったのは1976年のことです。会ったというより、チラッと覗き見したと言ったほうがいいかもしれません。ヒマルチュリの偵察登山で、隊長の節田重節さんにくっついてカトマンズの事務所を表敬訪問したのです。
 宮原さんと節田さんは会話していましたが、私は傍で、この方があの宮原さんなのかと畏敬の念で眺めていました。その後、どういうわけか、ちょくちょくお邪魔して食事に招かれたりするようになりました。学校は異なっても“山”の後輩としてお世話になりっぱなしです。「こんどオレのことを書けよ」と言われたとき「光栄です」と返事したのですが、恐れ多くて筆が進まなかった。そんなとき宮原さんは、ひそかに温めていた原稿を見せてくれました。そういう意味で、この本は合作と言っていいのかもしれません。
 本を書くにあたって、宮原さんの選挙活動に同行してヒマラヤの山村を歩き回ったり、ホテルヒマラヤの宮原さんの部屋に寝泊りしたりなど、いろいろ厄介になりました。宮原さんは、一言で言ったら不撓不屈の精神の持ち主です。私を含めて、ツメの垢でも煎じて飲みたいと思ったりもするのですが、常人離れしていてとても無理です。ネパール国籍を取得したその一事でも分るように世俗の常識を超越しています。私の先輩の植村直己さんもそうですが、どこか共通するところが感じられて偉大な人物です。
 そのことは本書を読んでいただければ理解されるかと思います。

(インタビューおわり)
 

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 新しい著書が出版されるたびに送られてくる根深さんの作品でとくに印象に残る数冊があります。「遙かなるチベット」(山と溪谷社)は良質な紀行ミステリーかと思わせる筋書きで、その取材力には感嘆しました。「シェルパ」(山と溪谷社)は、私の山岳部同期が長く居候していた、アンタルケー・シェルパや米国のレーニア山で出会った、ゴンブー・シェルパも登場しました。「ネパール縦断紀行」(七ツ森書館)は、楽隊に同行した様子がコミカルとシニカルを綯い交ぜにして現代ネパールを鋭く描いています。「ヒマラヤのドン・キホーテ」(中央公論新社)にはわずか数行、当社も登場するのですが、カトマンズ直行チャーター便など、“ドン・キホーテ支援部隊”の当社の活躍ぶりをもっとしっかり書いてよ、とも感じたところです。
 単行本として、山や、釣りや、森など、自然派作品が世に出にくい時代であっても、河口慧海の足取りを追い続ける驚嘆の取材力がある限り、根深さんの著作は息切れせずにいつまでも読者を楽しませてくれるはずです。健筆に感謝です。
 

(平成28年8月26日 聞き手:黒川 惠)