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News / ニュース

2017/03/02 お知らせ

登山界“おちこち”の人、立川女子高校前校長の髙橋清輝さんに聞きました。

  Newsletter 2017年3月号
平成29年3月10日 第392号
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インタビュー連載 第24回


山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。


立川女子高校山岳部員を教員として引率し、多くの海外遠征登山を成功に導いてきた髙橋清輝さんに、山がいかに素晴らしい教室であったかを語っていただきます。


── 昨今、中学、高校の若年アスリートがスポーツで活躍しています。ところが立川女子高校の普通の女子高生たちは1972年に台湾最高峰、玉山に遠征し、17名全隊員が登頂しました。立川女子高校教員となって7年目の快挙です。玉山の3年後は、韓国の雪岳山でした。これは7名が登頂しています。


 偏差値偏重の時代でもありましたが、それだけにこだわらず日本の高校生の誰もやっていないことをやろうと考えていました。それが立川女子高校山岳部の海外遠征につながっていきました。当時は、インターハイ(全国高校総体)と国体の登山競技にも出場していました。しかし、この登山競技に対して生徒たちからは競技の採点基準などで、出場に対する反対も出てきました。減点制で採点されるため、他の高校に比べて自分たちのどこが劣るのかよくわからない、といったことです。生徒にしてみれば自分たちのほうがよくできているのに減点されることに納得できないところもあったのでしょう。それに皆で一緒になって頑張ってきてもインターハイのチームは4人ですから、出場できないメンバーもおり、部員の間に少なからずわだかまりができてしまうのは、生徒たち自身にとって練習以上に辛いことでした。それで、インターハイ登山は都大会22連覇、全国優勝2回した後、出場することをやめました。その反発がヒマラヤ遠征につながったと思います。
 立川女子高校の生徒は、中学から登山をしてきているわけでなく、ごく普通の女子高校生です。その生徒たちが高校に入って初めて山岳部で登山を始めるのですから、エリート教育を受けるアスリートとはまるで違います。偏差値偏重のなかで、「どうせ私たちなんか・・・」、と考えていた生徒が、自分たちでもできる、やってやろう、と考えて日本の高校生の誰もやっていないことをやってきたということだと思います。


── そしていよいよ、立川女子高校山岳部を一躍有名にした、ヒマラヤ遠征です。登頂されたゴーキョピークは、いまでこそ中高年トレッカーが登るピークですが、当時は情報も少なくご苦労もありました。高校生にとっては遠征資金を確保することは大変なことでした。


 裕福な家庭ばかりではありませんから、女子高校生にとって遠征資金捻出の苦労は大変でした。まだコンビニやファミレスが多くないころでしたからアルバイトそのものを見つけるのに苦労するのです。山岳部としておこなったアルバイトには床屋のまかないがありました。大きな理髪店の従業員のために食材の買い出しから夕食づくりまでやりました。山岳部だからこれは得意なことです。
 ゴーキョピークにはカルカッタ経由で行きましたが、カルカッタでの路上生活者の物乞いには大きなカルチャーショックを受けたようです。「先生、私たち、登山なんかしていていいのですか。」と真顔で聞かれました。入山後も少年から老人まで粗末な服装のポーターたちにも生徒たちの思いはあったのです。安い日当で重荷を背負ってもらっている、という思いです。それでこのゴーキョピークの後の海外遠征は、自力で登る山に変化していきました。カナダやアラスカ、コングールも、です。
 当時ゴーキョピークの情報はいまのようにたくさんあるわけではなく、高校性にとっては高所登山ですから実際苦労しました。高山病で体調を崩すのですが、生徒たちは、「あんなに大変なアルバイトしてきたのだから、こんなことで負けてたまるか。」と生徒たちの頑張りはこのようなことも原因になっています。
生徒たちは負けず嫌いだったのです。


── 1982年、カナディアンロッキー、コロンビアアイスフィールド最奥の山の一つ、ノースツイン(ツインズ北峰)への登頂。1989年、ヒマラヤ・チュルー南東峰登頂。1992年、アラスカ・サンフォードへの挑戦、と日本登山界でも評価される成果がつづきました。そして1995年に中国の高峰コングールⅣ峰初登頂につながりました。


 ノースツインとサンフォードは、サポートのシェルパもポーターもいませんから、自力です。カナダとアラスカは英語圏の国なのでナショナルパークのレンジャーとのコミュニケーションには苦労しました。英語の教師もいたのですが・・・。ノースツインの遠征ではアルパインツアーにもお世話になりました。
サンフォードは頂上直下で風雪に閉じ込められ、現場取材で同行してきたテレビ・クルーも日本の本社命令で下山してしまいました。真剣に脱出を考えなければならない状況でした。そのとき、生徒たちから、「先生、心配しなくていいよ。私たち吹雪いているかぎり、歌合戦やるから。」と言うのです。生徒たちに力づけられました。結局風雪の合間をみて脱出しました。登頂できなかったのは残念ですが、無事下山してよかったと思っています。
 立川女子高校山岳部には、ヒーローもヒロインもいらないのです。むしろ邪魔なのです。チーム全体での仕事に優劣はなく、山岳部は適材適所論の実践だったのです。山岳部で率先して医療係を担当した生徒の5人がいまは看護師になっています。天気図だけは任せてとか、豊富なメニュー料理で力づけた食糧係がいました。ここだけは私が優れている、と自信をもてるのはいいことです。
 海外遠征でとくに難しいルートは、いつも教員である私が先頭で進みました。リーダーである自分は生徒より技量があるからです。OGがロープをフィックスすることもありました。高校山岳部の遭難事故が続いた時期もありますが、立川女子高校の当時の校長は、「うちには髙橋先生がいる。だから遭難は起こさない。」と常々言ってくれていました。いま思うと実にありがたい言葉です。登山に理解のあった学校です。
 ヒーロー、ヒロインはいらない、ということでは、チュルーへ登頂した後に記者会見があったのですが、そのとき登頂者の名前は発表していませんでした。記者にしてみれば誰が登ったか知りたいわけですからしつこく質問します。あまりにもしつこいので、サブリーダーの生徒が仁王立ちになって、「誰が登ったっていいじゃないですか。立川女子高校山岳部が登ったんですから。」と大声をあげました。まったく予想もしなかったことなので私も他の教員も驚きました。結局生徒たちにとっては、誰がどうしたか、ということではなく、みんなでやり遂げる、ということが一番大切なことだったということです。これが立川女子高校山岳部の底力になっていたのではないでしょうか。コングールは、パミールの高峰でⅣ峰は世界初登頂ということで注目を浴びましたが、このときも高山病がひどくて登頂できなかった生徒がいました。でも、下山してからその子を囲んで隊員全員が抱きあっているのです。
 50年以上、山岳部の顧問を務めてきました。これまで山岳部から送り出した生徒は120名を超えます。高校山岳部は間違いなく人間形成の良き教室でした。山は、素晴らしき教室であり、登山は自分自身がプレイヤーですから、自立する精神も養われます。近年、戦っているプレイヤーに対するサポーター(応援・支援者)という言葉が流行していますが、サポーターとしてのよろこびが大きすぎるようにも感じます。戦っているプレイヤーにはならずにサポーターで満足し、それが人生のすべてになってしまったら情けないことではないでしょうか。目標というゴールに夢がなければ、いまどきの若者や子どもたちはやり遂げることを避けてしまうのです。しかし、指導者は、若者や子どもたちに夢のある目標を掲げることができるし、そうしなければならないと思うのです。
 現在、立川女子高校山岳部員は少ないですが、それでも第九次海外遠征を目標に懸命に錬磨しています。すでに現役教員をリタイアしていますが、これからも総監督のような立場で山岳部を支えていきたいと思っています。

(インタビューおわり)


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 我が青春まっただ中の中央大学附属高校山岳部のとき、インターハイや国体登山は常勝でした。女子の部で抜群に強かったのは立川女子高校でした。
 そんなわけで髙橋先生とは当時から知り合っていたわけですが、こうして先生の話しを聞いていて、とくに印象深いのは、ロッキーのノースツイン登頂です。1972年に日本山岳会学生部隊で登った山ですが、アサバスカ氷河のクレパス帯を登り、あの広い氷原を越えて、アルバータ峰を間近にするあのピークに、まさか女子高校生が登るとは。この遠征のお手伝いをさせていただいたことを心底誇りに思っています。まさに女子高生おそるべし。これも、髙橋先生の人間力育成とでもいうべき、チームづくりそのものの成果なのだと思うのであります。

(平成29年2月16日 聞き手:黒川 惠)