世界の山旅を手がけて49年 アルパインツアー

海外・国内のハイキング、トレッキング、登山ツアーのアルパインツアーサービスです。

お問い合わせ

facebook twitter

News / ニュース

2017/04/03 お知らせ

登山界“おちこち”の人、日本ブータン友好協会 理事、脇田道子さんに聞きました。

  Newsletter 2017年4月号
平成29年4月10日 第393号
印刷用PDFはこちら


インタビュー連載 第25回


山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。


ブータンは、GNH(国民総幸福)でも注目を浴び、未踏の世界最高峰ガンカープンスムでも知られる、ヒマラヤの王国。そのブータンに通って41年目となる、脇田道子さんに外国人ツーリスト受け入れの黎明期から今日までを聞きました。


──  早稲田大学卒業後、旅行業界に就職されました。そこからブータンとの関係が強まり、足かけ41年ブータンに通ってきました。日本ブータン研究所に所属し、日本ブータン友好協会の理事です。


 私の最初のブータン訪問は、1976年12月のことです。6人の日本人旅行団の添乗員としての訪問でした。大学卒業後、都内の小さな旅行会社に就職していました。その会社は1974年に初の日本人旅行団をブータンに送っていましたが、私のグループはその3団目でした。ツアーのタイトルは、「秘境ブータン」で、1958年にブータンを訪問された中尾佐助先生の著書のタイトルにあやかったものでした。当時の日本人がブータンを知るきっかけになったのが、この本と1974年6月2日に営まれた第4代国王ジグメ・センゲ・ワンチュックの戴冠式を伝えるニュース報道でした。
 当時ブータンに行くためには6人以上のグループを組み、唯一の入国ポイントだったプンツォリンにインドから陸路入国しなければなりませんでした。インド側のジャイガオンの国境事務所で出国手続きを済ませ、極彩色に塗られたプンツォリンの門を潜り抜けると、まるで別世界へ入り込んだような錯覚に陥ったものでした。
 ブータン側の入国事務所の職員の歓迎を受け、国営ホテルでは従業員が大変礼儀正しく接客してくれました。フロントのスタッフが、両手で恭しく鍵を渡してくれた時には驚きましたが、すべてのサービスがVIPに対するものと同等でした。ホテルの従業員を含むブータン国営旅行社(Bhutan Travel Agency)のスタッフの多くは、1974年の戴冠式に招待された世界各国からの賓客をもてなすために特別の訓練を受けていましたので当然のことだったといえます。「ブータンは、好機に満を持して外国人観光客の受け入れを開始した」と今でも思います。
 そのころのティンプーの人口は約4万人、私の母校早稲田大学の当時の学生数と同じぐらいでした。タシチョ・ゾンは水田と小さなゴルフ場に囲まれ建物もまばらでした。パロもティンプーと同様でしたが、より静寂に包まれ、天国のように安らかな谷という印象でした。聖地タクツァンへは馬に乗って登りましたが、なんとものんびりして楽しいものでした。


── 旅行業にとって、相手国との通信は極めて重要です。1970年代以前はブータンのみならずヒマラヤ圏の国々は通信事情が悪いため大変苦労しました。


 ブータン観光の歴史は通信手段の発達史といっても過言ではありません。1970年代は、ブータンへの入国申請書類は、ニューデリーにあるインドの旅行会社に郵送していました。インド内務省にブータン入国に必要なインナーライン(インド内郭線)通過許可書を申請するためです。ブータンが独立国であるにも関わらず、北東インド諸州と同様に西ベンガル州の国境地帯を通過するための許可書の所持が義務づけられていたからです。インドの郵便事情が悪く、郵送には1ヶ月以上を要し、許可を得るのに数か月かかることもありました。
 1983年に国営ドゥルック航空のプロペラ機がカルカッタからパロに就航したときはどれだけ嬉しかったことでしょう。空路で入国する人にはインナーライン許可書が不要だったからです。
 70年代、書類を郵送する十分な時間がない場合には、パスポート番号などの個人情報を電報で送っていました。ファックスなどない時代ですので、まず、日本の電報局に電話して、オペレーターに英文の伝聞を口頭で伝えるのですが、たとえば、WAKITAという名前のスペルは、「ワシントン(のW)、アメリカ(のA)、神戸(のK)、アイスランド(のI)、東京(のT)、アメリカ(のA)」といった具合に都市名を使って延々と英文を伝えるのですが、10人分のデータを流すのに、2時間以上かかったこともあります。それは私が流したデータを確認のためにオペレーターが電話口の向こうから全文繰り返すからです。この電報送付の作業の緊張と苦労は、今でも忘れられません。
 80年代になって、テレックスが導入され、ブータンと直接通信ができるようになりました。ただ、ティンプーとの通信は、先方の電力事情にかかっていました。しばしば停電が続き、メッセージが送受信完了となるまでに数日かかるのは当たり前のことでした。
 その後、1990年代には電話がだいぶ通じるようになり、ファックスが使えるようになりました。しかし、ブータン側が停電では送受信はできません。その電力事情も次第に改善され、1999年にはようやくインターネット通信が可能になりました。おかげで通信費のコスト削減ができ、1991年に民営化されたブータンのツアー・オペレーターにとっても大きな利点となりました。


── いま、ブータンでの登山はトレッキングを除いて、全面禁止されています。どのような背景があるのでしょうか。


 1983年に田部井淳子さんを隊長とする女子登攀クラブが先鞭をつけ、登山が解禁されました。その後、1994年には6千メートル峰以上の登山が禁止され、2004年からは全面的に禁止されました。ブータンの人々にとって、山は信仰の対象で神聖なものであるという理由でしたが、ネパールのシェルパや山岳ポーターのような職業がないブータンでは、村人がアルバイトで荷物運びの手伝いをすることになります。でも登山シーズンは田植えや収穫の時期と重なることもあって、農家の貴重なマンパワーを長期間割かれるのであまり歓迎されていませんでした。また、荷運び用の馬やヤクなども貴重な家畜であり、有償とはいえ長期間登山隊に提供することには村人の抵抗感もあったのです。このような状況を知った王家からも強い抗議が出され、現在も登山禁止の状態が続いています。しかし、頂上を目指さない短期間でおわるトレッキングはいくつものコースがあってむしろ奨励されているのです。


── ブータン王家は6年前の東日本大震災の後、第5代国王夫妻が被災地を見舞うために来日されました。第4代国王は昭和天皇の大喪の礼に参列されました。


 2000年に875人だった日本人訪問者は、急激に増加し、2012年には6,967人に達しました。これは、ひとえに2011年の第5代国王夫妻の日本訪問を契機にブレークしたブータンブームのお陰です。大地震と津波に見舞われた年の国王と王妃の来日は、多くの日本人に大きな感銘を与えました。仏教界の首相に相当する高僧、ドルジ・ロポン・リンポチェも同行され、福島で犠牲者のために特別な祈りを捧げられました。ブータン王室は、これまでにもブータンを日本に紹介する重要な役割を果たされています。第4代国王は、1989年2月24日の昭和天皇の大喪の礼に参列されました。滞在時間は数日間だけでしたが、赤いゴに身を包んだ若き国家元首の堂々たる姿は多くの日本人の心を打ちました。まさに国家の品格を身をもって示されたといえるでしょう。


── さて、40年前といまのブータンですが、どこが最も変化したのでしょう。


 私自身は、途切れることなくずっとブータンに通い続けてきたため、変化するブータンに慣れてしまっている気がします。しかし、冒頭で申し上げた、1976年のグループのメンバーの中に、39年振りにブータンを再訪した、86歳の女性がいます。当時はインドのバグドグラから陸路の入国でしたから、まず、空路でパロに到着できることに驚かれていました。それからまるで人の姿を見かけなかった39年前の町中に、たくさんの家が建ち、人も車も多くなっており、そして多くの若者がスマートフォンを手にしていることに驚嘆していたのです。
 これからもブータンは変化を遂げていくと思いますが、美しい自然と穏やかな人びとの笑顔でツーリストを癒やし続ける国であり続けてほしいと願っています。

(インタビューおわり)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 渋谷のマンションの小さな旅行会社で脇田さんと出会ってから、40年。お互い会社も違ったので、むしろ競合関係だったといえるかもしれません。でも脇田さんが前職を退いてから13年も経っているとのことなので、いままで関わってこられたブータンのことを聞かせてもらいました。
 脇田さんは、インドのアルナーチャル・プラデーシュ州の少数民族に関する論文で、2014年に慶應義塾大学から博士学位(社会学)を授与されています。日本では数少ないブータン研究の最前線にもおられ、いまもインド、ブータン、チベット国境地帯へ頻繁に出かける研究生活とか。あいかわらず山から遠ざかったまま、日々の会社通いをつづける自らを省みる機会となったインタビューでした。

(平成29年3月16日 聞き手:黒川 惠)