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News / ニュース

2017/04/28 お知らせ

登山界“おちこち”の人、スポーツキャスター 荻原次晴さんに聞きました。

  Newsletter 2017年5月号
平成29年5月10日 第394号
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インタビュー連載 第26回


山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。


日本を代表する、ツインズ(双子)アスリート。ノルディックスキー世界選手権複合団体金メダル、長野五輪個人6位など輝かしい戦歴を誇り、いまはスポーツキャスターで活躍。「次晴登山部」を発足し、日本百名山登頂に挑戦中の荻原次晴さんの登場です。


──  町立草津中学で全日本中学選手権出場、群馬県立長野原高校では全日本強化選手に選ばれました。早稲田大学を出て、1995年のワールドカップ、1月のチェコと2月のノルウェーでは、いずれも兄の健司さんが優勝で、次晴さんとのワンツーフィニッシュでした。さらに3月カナダ、サンダーベイでの世界選手権は団体戦で金メダルを獲得しました。


 3歳からゲレンデスキーを始めて小学5年でスキージャンプに出合い、中学に上がると同時にノルディック複合の道へ入りました。中学3年の時に北海道旭川市でおこなわれた全国中学生スキー大会のノルディック複合で、兄の健司が優勝、僕が2位。それまでは成績は僕が良かったのですが・・・。中学1年の時、僕は全国大会に出られたのに、健司は行けなかった。それが健司のハートに火をつけて後のオリンピックの金メダルにつながっていったのでしょう。
 その後、健司はインターハイで優勝しますが、僕は最高で3位あたりでした。高校に上がると世界ジュニアスキー選手権に出場するようになりました。このころから健司は世界で戦う意識が高まっていて早稲田大学スキー部のOBだった高校の担任の勧めもあり、大学は早稲田に行くと決めていました。僕は健司が早稲田に行くと言ったから、ついて行くという感じでしたね。
 大学時代は埼玉県所沢市での合宿所生活でした。健司は真面目に学業とトレーニングに励み、ワールドカップのメンバーに選ばれ、大学4年時にはオリンピックに出場して団体戦で金メダルを取るまでになりました。一方の僕は授業中寝ていて部活もそこそこ頑張る程度。毎晩遊びに出掛けて、インカレに出ても入賞できるかできないかといったレベルまで転落していました。
 そんな生活をしていたので単位がかなり足りず、卒業が近づくと苦労しました。大事な試合があるから試験や単位がどうにかならないか教授に相談しても、「わかった」と認めてはくれません。逆に「来年受けなおせ」と言われてしまいました。
 大学4年時に健司が金メダリストになって注目されると双子で顔がそっくりな僕はどこに行っても健司に間違われました。そのつど僕は双子の弟の次晴だと説明しましたが信じてもらえません。それどころか中には「嘘をつくな」という人もいました。痴漢をしていないのに痴漢だと言われる感覚に近かったですね。それがとても嫌で、嘘をついていないことを証明するには健司が一番注目される、オリンピックというステージに僕自身も上がるしかないと決意しました。
 兄弟だと、よく「ライバル関係ですか?」と聞かれます。でも僕ら双子は仲が良くて、健司のことはライバルというより、自分にとっての目標でした。健司が頑張っている姿を手本にやっていただけで勝ちたいと思ってはいなかったのです。そんなわけで奮起して、ワールドカップのメンバーに選んでもらい、兄弟でのワンツーフィニッシュやサンダーベイでの世界選手権では、ともに団体優勝もできました。


──  子どものころは器械体操を習っていたとか。草津のご両親はスポーツ教育に力を入れていたのでしょうか。お二人ともアルパインツアー「世界の山旅」の超リピーターです。


 僕ら双子は小学1年から5年まで器械体操教室に通っていました。それがスポーツ教育だったのかもしれませんが、田舎だったので身体づくりと健康のため、ごく普通に通っていただけです。将来オリンピックを目指す気はさらさらありませんでした。冬になるとゲレンデスキーをやっていて次第にそちらの方が楽しくなって小学5年の時に体操教室をやめてジャンプを始めました。ジャンプ台は最初怖かったです。最初は雪を盛った椅子くらいのの高さから飛んで、少しずつ高くしていくのですが、当時の飛距離は15mほど。飛び立つ踏み切りの部分は真っ白だと見えづらいので松の葉を転々と並べて目印にしていました。いまはレールの中に色が塗ってあります。僕ら双子は、現役時代ほとんど怪我がありませんでした。空中で体勢が崩れても鉄棒での空中感覚が役立つたのでしょう。平衡感覚や柔軟性などはスキーにもつながったと感じます。
 子供の頃は週末になると両親と上信越の山々に登っていました。その頃は、登山の良さはわからず、両親と一緒には行くけど先に山頂に着いてしまい、そこで待っていることが退屈だったのを覚えています。どこの山に登った時か忘れましたが、親父から預かった鉈を僕は山頂に忘れてきてしまったことがありました。下山後、親父に鉈を忘れてきたことを話すと、「取りに行け!」と。それ以来、山に行きたくないな、と思うようになってしまったのです。中学に入り、スキーを本格的に始めると、両親との山登りはなくなりました。
 ところが、選手としてヨーロッパを転戦しながら本場アルプスの山並みを見ると、いつかは歩いてみたいと思うようになっていました。両親に連れられて山歩きをしたことを思い出したのです。引退したら山歩きをしてみようと思い立ちました。


── 登山にめざめ、「次晴登山部」を結成しました。百名山登頂まで残すところ43座です。世界選手権金メダリストは登山の楽しさをどこに見つけるのでしょうか。


 アルパインツアーとは、2003年に「夏山を歩こう、ノルディックウォークファンの集い」を始めました。いま思えば次晴登山部の前身です。ファンの人たちは山歩きをほとんど知らなかったので、アルパインツアーが企画する本格的な登山には苦情も出ました。4年ほど中断して、2011年8月に次晴登山部を結成しました。次晴登山部では日本百名山は57座登りましたから、残すは43座(4月8日にそのうちの焼岳へ登頂)。2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでにはすべて登頂したかったのですが、これからまだ5年はかかるでしょう。
 次晴登山部での登山はもちろん競技とは異なり、ゆっくり歩いています。山を楽しみながら、のんびり歩いて安全登山に徹しています。次晴登山部の部員をもっと増やすのが、部長の僕の仕事です。
 根っから山好きの父親と山歩きに行くと、めちゃくちゃ早くて、「なんでそんなに早く歩くのか」と聞くと、「前に人がいると抜きたくなる」とか。きっと親父から受け継がれた血が流れているから、ノルディックスキーの世界で戦ってこられたのではないかと感じます。みんなでわいわい楽しく登るのはもちろんですが、一人で黙々と自分と向かい合って山を歩くのも好きです。
 次晴登山部に専門部をつくり、バックカントリースキーもできたらいいと思っています。部員はついてこられないかもしれませんが・・・。海外遠征の声も上がっています。現役時代に転戦してきたヨーロッパアルプスのシャモニやドロミテなどに行ければうれしいです。


(インタビューおわり)


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 早稲田大学を5年かけて出ました、と大学時代のご自分を屈託なく話してくれた、荻原次晴さんの人なつっこい笑顔が印象に残っています。アスリートからスポーツキャスターに転じた次晴さんの、けれんみのない話し振りは人を惹き付ける条件の第一だと感じた次第です。真のアスリートに、はったりやごまかしがないのは当然ですが、スポーツ競技の世界の爽快感をあらためて感じました。40代後半の肉体ながら、薄手のセーターからうかがえる胸はいかにも分厚そうで、もし挑戦すれば氷壁や岩壁も華麗に登るだろうと勝手に想像した次第です。
 現役時代に転戦を重ねた、欧州アルプス山麓へぜひ次晴登山部メンバーをいざなっていただきたいと切に願っております。

(平成29年4月7日 聞き手:黒川 惠)