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2017/08/30 お知らせ

登山界“おちこち”の人、往年の名クライマー、田部井政伸さんに聞きました。

  Newsletter 2017年9月号
平成29年9月10日 第398号
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インタビュー連載 第30回≪最終回≫


山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。


グランド・ジョラス北壁とマッターホルン北壁、ヨーロッパアルプスの二つの北壁を完登した、往年の名クライマー、田部井政伸さんに、亡き田部井淳子さんとの山での出会いと、在りし日の一面を語っていただきます。


── ホンダ(本田技研工業)の山岳部で活躍されていました。冬の一ノ倉沢コップ状岩壁冬期第二登、幽ノ沢中央壁左方ルンゼ初登攀など輝かしい登攀歴です。旧姓石橋淳子さんとの出会いは、一ノ倉沢南稜上部の大きな雪渓でした。


 中学生の頃、自宅のある前橋から友人らとテントを担いで赤城山へ登ったことがあります。山上部の大沼で幕営したのです。妻は、「私の最初の登山は、那須・茶臼岳、小学4年のとき担任の先生に連れられて登った」といくつかの本に書いています。妻の故郷の福島県には、名山、安達太良山もあり、妻にとっての茶臼岳や安達太良山が、私にとっての赤城山ということになるでしょう。
 妻は本や講演のなかで、「山に麓から自分の足で登ることは大切で楽しいことだけど、無理だと思ったり、面倒だと思ったりしたら、ケーブルカーやロープウエイなどの便利な交通機関にたよって上のほうまで行って、まず、自分が山のなか、自然のなかにいることを楽しんだほうが断然いい。それで山や自然の素晴らしさがわかれば、『次はどこに行こうか』と楽しい気分になる。登山でつらい思いばかりして結局登山をやめてしまうのは本当に寂しい。」といったことを語っています。
 私の若い時分はクライマーの一人として、「より高く、より厳しい山に登ってこそ登山だ」と思い続けてきました。今もその気持ちがまったくなくなったわけではありませんが、その一方で、身近な里山をのんびり散策することがこのうえない楽しみであることもわかるようになってきました。
 私にとって、通い詰めた山は、谷川連峰です。マチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢、といった日本を代表する大岩壁が聳立し、関東のアルピニストにとってはまさに“乗り越えなければならない壁”だったのです。
 ホンダに就職してから油まみれの白いつなぎ服を着て働きました。大好きなバイクにさわっていられることが本当にうれしかったのです。ホンダでは会社の山岳部に入りました。生産現場の仕事に従事しながら毎週のように山に入りました。土曜半ドンの後、職場を出て装備を準備して上野から夜汽車で谷川岳に向かったのです。当時の新人部員はどこも同じように、丹沢や奥多摩の尾根から沢、それから岩登り、と階段を上がるようにトレーニングを積み上げて、谷川岳に入ったのです。夜行で山に向かい、最終列車で東京にもどる、それができるのが谷川岳でした。一ノ倉沢の衝立岩、烏帽子奥壁、滝沢スラブ、南稜、コップ状岩壁など片っ端から攻めていきました。
 そんな時期、もう50年以上前の夏のある日、一ノ倉沢の南稜を登った岩壁上部の大きなテラスの雪渓で小休止していたとき、後続のパーティーがやってきて、そのなかに女性がいました。のちに我が妻となる石橋淳子でした。当時、女性クライマーは珍しかったので、龍鳳登高会で彼女が頑張っているくらいには聞いていました。それから彼女とは谷川岳の岩場で何度も出会うことになったのです。鷹取山(追浜)の岩場で、ホンダ山岳部と龍鳳登高会が合同で岩登りのトレーニングをしたことがありました。そのとき私はウールのカッターシャツを着て行きました。品質がよく値段も高いものでした。そうしたら、妻も同じカッターシャツを着ていたのです。最近、古い荷物のなかからその2着を見つけて並べることができました。結婚までには少し苦労もありましたが、豊島区南長崎の狭いアパートで新婚生活が始まりました。


── およそ半世紀前、ヨーロッパ・アルプス3大北壁に挑戦し、グランドジョラスとマッターホルンの二つの北壁を完登しました。凍傷を負い入院しているところへ、奥さまの淳子さんの手紙が届き、「私がつえがわりをする」、と書かれていました。


 結婚の翌年(1968年)、私は日本登山学校海外遠征研究会の一員としてヨーロッパ・アルプスの3大北壁をめざしました。マッターホルン(4478m)北壁、グランドジョラス(4208m)北壁、アイガー(3970m)北壁です。1シーズンのうちでこの3つの北壁を登れば史上初のことになります。
 「ヨーロッパ・アルプスに行きます。2ヶ月休みをください。」と休暇申請したら、当時のホンダは私のわがままを許してくれました。この登山に何らかの社会的意義を認めてくれていたのかもしれません。もちろん私もそれに応えるべく、働くときは夜を徹してしゃにむに働きました。
 シベリア鉄道で1週間かけてヨーロッパへ入り、さらにウィーンからグリンデルワルド、ツエルマット、シャモニに向かいました。まずは、気象条件などから最難関と考えたアイガー北壁を狙いましたが、この夏の天候は異常で山麓の町でも湿った雪が舞い続けていました。「このままでは3大北壁を眺めておわり」になりかねないということで、方針を変えました。少しでも天候が安定している、グランドジョラス北壁に取り付き、2日間で登攀し、次いで、マッターホルン北壁を登攀したのです。遠征期間内ではアイガー北壁を登ることはできず、諦めることになりました。
 3大北壁のうち、二つを極めることはできましたが、代償もありました。一緒に登ったザイル仲間の野口久義さんと私の2人が両足の指を凍傷で失ったのです。しばらくは歩くのも大変でした。ツエルマットの病院に入院していたとき、妻、淳子から一通の手紙が届きました。そこにはこんなことが書かれていました。・・・「二大北壁を1シーズンで完登できて、おめでとう!ほんとうに。しかし25日に着いた手紙はショックでした。(略)心配するななどとは言っても無理。愛する夫の体のことを遠く離れて心配しない妻はいないでしょう。貴方も野口さんも優れたクライマー。そしてこの私もクライマーの中に首を入れている女性。それ位でケションとなりません。足がなくとも手がなくとも、温かく血の通う体のまま下山してくれたことを神に感謝しています。(略)両足とのことですが、歩くのにさしつかえございませんか。頑張ってください。私がつえがわりをいたします。」・・・と。


── 女子登攀クラブがアンナプルナⅢ峰の次ぎに目指したエベレストで、田部井淳子さんが女性として初登頂しました。「田部井さんの奥さん」が、「世界の田部井淳子」になりました。


 世界の女性初のエベレスト登頂によって、本人は何も変わらなくても世間が変わりました。川越に住む「田部井さんの奥さん」が「世界の田部井」になったわけですが、かねてから妻は、「いい気になってはダメ、威張ったり、偉そうに言ったりしてはダメよ。」と言っていました。自分を戒めているようようでもあり、自分の身内に自分の登山を勘違いしてほしくないと伝えているようでもありました。たしかに山の話しをすると、相手はそれを自慢話のように受け取ってしまうことがあります。話している本人に自慢したい気持ちがあるかどうかわからなくても、聞くほうは、自慢されているように感じてしまうかもしれません。妻はそのことを言っていたのです。


──東北の高校生の富士登山は今夏も全員登頂で無事おわりました。目標は、1000人の東北の高校生に日本最高峰に立ってもらうことです。達成まで、あと7年でしょうか。


 被災した若い人たちに何とか元気になってもらいたいという妻の強い思いからこのプロジェクトは始まりました。アルパインツアーさんにも企画実施・運行・引率面で協力してもらっています。「いきなり富士山に連れて行くなんて危険だ。」とか、「福島県なら磐梯山で十分」とかいろいろな意見をもらいながらも、妻は、「大きな志をもってもらいたい。日本一の山に登ることで得られるものがある。」と富士山こだわりました。登山未経験の高校生ですから、装備一式レンタルなどすごくお金もかかります。でもそういう困難が多いときほど妻にはファイトが湧いたようです。
 困難視されたこの富士山プロジェクトですが、今夏で6回目を終えました。最初は実現不可能だと思われたこともいつの間にか実現可能な圏内に入ってきます。これが、いつも妻が言っていた「意志こそ力」なのだと思います。思えば、私自身の登攀歴や、二つの北壁も、意志の力があったればこそだった、といまさらながら感じるのです。


(インタビューおわり)


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 この連載インタビューは登山に関わりのある、男性・女性に交互に登場していただくことで、第1回目(平成27年4月)の田部井淳子さんから始まりました。連載30回で区切りを付けようと考えていましたので、最終回の今月号は、この人以外にはいないと思っておりました。
 田部井政伸さんの新著のタイトルは、「てっぺん“我が妻・田部井淳子の生き方”(宝島社刊)」ですが、往年の名クライマー田部井政伸さんの生き方もまた、なんのてらいもなく書き上げられていて、一気読み間違いなしです。
 田部井ご夫妻とは、東日本大震災で被災した東北の高校生たちの富士登山の企画と運行でともに苦労を重ね、感動を共有してきました。田部井淳子さんにとって、最後の山行となった昨年7月の富士登山での田部井夫妻の後ろ姿と、翌朝の元祖七合目の山小屋で高校生を励ますお二人の姿は、まさに登山を共通の趣味とする夫婦の鑑であった、とその光景を振り返りながら感じるのであります。
 東北の高校生の富士登山は今夏も64人全員が富士宮口から登頂しました。もちろん来年もこの富士登山は長男の田部井進也さんをプロジェクトリーダーとしておこないます。


(平成29年8月1日 聞き手:黒川 惠)